【特別インタビュー】親身で誠実な町医者のような存在であれればいいなと思っています。
アートワークセツ
代表 小林 武
ウェブサイト制作との出会いは「5,000円札を握りしめて書店へ」
現在の「ウェブ制作室」というお仕事の源流はどのあたりにあるのでしょうか?
もともと小さな頃から絵を描くのが好きで、得意な方でした。しかし、現在の「仕事の源流」となると、高校2年生時に経験した父親の死がそうなるかなと思います。
父親は当時の農協(現JA)で農作業機械の修理を行う技術者で、コツコツと真面目に仕事をする良くも悪くも堅実に日々を過ごす人でした。
一方、家庭では、私が次男だったこともあり「武は好きなことをやらせたい」という方針で、割と自由にさせてくれていました。
ところが、ある日突然父親がこの世を去ってしまい、何とも言えない父への喪失感とともに、「仕事のための人生」ではなく「人生のための仕事」をやっていかなくちゃいけないという思いを強く抱きました。
そうなんですね。その後、どのような進路を歩まれていくのでしょうか?
高校卒業後は、ポスターなどのグラフィックデザインを学べる美術系の専門学校に入学し、デザインの勉強と高校時代から続けていたバンド活動とに明け暮れた2年間を過ごしました。
就職氷河期でしたが、卒業後は地元のデザイン会社でDTP(Desktop Publishing/デスクトップ パブリッシング)デザインの職に就くことができました。
当時はウェブサイトが日本企業の間でも普及し始めていた頃。入社後しばらくしたある日、「これで本を買って来て(ウェブサイト制作業務を)始めろ」と会社から渡された5,000円札を握りしめて書店に走ったのがウェブサイト制作との出会いでした。(笑)
その会社では地元の民宿やホテルなどのサイト制作を受注し、クライアントとの打合せからデザイン、制作まですべて私一人で対応していました。
インターネット黎明期ならではの光景ですね。そこから順調にキャリアを重ねていくのでしょうか?
いえ、それがそうでもないんです(笑)。
「自分がやりたい仕事って何なんだろう」と思い悩む日々でした。今では贅沢な悩みだと思いますが、新入社員のくせに会社で割り当てられる仕事内容が自分に合わないと思っていました。
あらためて自分の人生を見つめなおす中、心のどこかで「音楽活動をしたいかも」という考えがずっとありました。そして、それまで続けていたバンド活動をもっとやってみようと思いました。結局、勤めていた会社は1年で辞めました。
バンドは男性デュオで、私はエレキギターとコーラス、相手がアコースティックギターとボーカルでした。自分たちのオリジナル曲を演奏し、同じ男性デュオの「ゆず」ともよく比較されていました。オリジナルでテープやCDを制作、主に路上ライブを行いながら、ライブツアーでは東京、大阪、広島を周りました。当時はyoutubeなんてありませんのでCDを手売りで頑張って合計で1000枚以上販売しました。
結局、音楽でやっていくのは厳しいとなるのですが、頑張った結果なので自分としても納得できていますし、この時期に、現在の仕事への取り組み姿勢にも大きく影響する出来事がありました。
結婚を機にあらためての一念発起で長野市へ
どんな出来事でしょうか?
当時、音楽活動をしながらイベント設営のアルバイトをしていたのですが、このアルバイトは基本的にその場限りの要員で人数も多いため、名前ではなく着ているシャツにゼッケンを付けられてその番号で呼ばれたりします。指示する立場の人から人格否定のような言葉を投げられることもしばしばで、人として扱われている感じがしないのが普通でした。
ある時、このアルバイトで、ある劇団の長野公演の舞台をお手伝いしました。この時の劇団付きの舞台スタッフが素晴らしく、アルバイト相手でもていねいに接し、信頼して仕事を任せてくれ、完了したらきちんとお礼を言ってくれたんです。
その時に「仕事って楽しいな」って初めて思えました。当たり前のことかもしれませんが、その当たり前のことが日々当たり前に行われているかというと、意外とそうでもない。しかも、その時は一番末端の立場である単発アルバイトスタッフに対してまでその意識が行き渡っていて、感動したのを今でもはっきと覚えています。
素晴らしい経験ですね。そこから現在の仕事へはどのように繋がっていくのでしょうか?
仕事としてではありませんでしたが、デザイン会社を退職した後も自分たちのバンドのウェブサイト、CDジャケットやライブ告知のフライヤーなどでデザインやウェブ制作は一応やっていました。それを知ったあるフリーランスのデザイナーからウェブサイト制作のクライアントを紹介いただく機会があり、それが報酬を得てお請けしたウェブサイト関連業務の初めてのものでした。
また、音楽ではない道でやっていくとなった時期に、新聞折り込みのタブロイド紙の編集業務の依頼をいただきました。
そこから順調に…と言いたいところですが、ここでもまだ上手くいきません(笑)。タブロイド紙の仕事自体は依頼にきちんと応えて行っていたのですが、短い期間で廃刊となってしまいました。
同じ時期に間借りをしていた事務所では「全然役に立たない!」と私自身を全否定されるような言葉を投げられ、精神的にかなり参ってしまいました。
仕事は続かず実家(長野県飯山市)に戻り、友人からの誘いでベンチャー農業でオクラ栽培を手伝ったりもしましたが、これも上手くは行かず、フリーターのような生活がしばらく続きました。
なかなか大変なご経験をされてきているんですね。
当時はなかなか大変でしたね(笑)。その後ですが、専門学校時代から付き合っていた彼女との結婚を機に、もう一度長野市を拠点に生活と仕事を始めることにしました。
そしてここで、やはりこれまでの経験を活かしてウェブサイト制作関連業務を中心に行っていこうと決意しました。
外部協力企業を探しているウェブサイト制作会社と出会い、ウェブサイトのコーディング部分の依頼をいただけることになりました。
この会社の事務所に行くと壁に「協力企業と共に」という貼り紙がしてありました。それを見たとき、アルバイトでの劇団の方のエピソードを思い出し、自分が仕事をしていく上で大切にすべきものとして強く意識し始めました。
関わる方々としっかりコミュニケーションを図ることで相手を理解し、感謝の気持ちを忘れず、それを言葉にして相手に伝える。そうしてできた信頼関係の上に、求められているものを提供し、よりよい提案を行う——これは今も変わらず活動の根底にある方針です。
“必要な施策を必要なだけ”で、個人事業主にも手の届く伴走サービス
素晴らしい方針ですね。
ありがとうございます。この会社とはその後10年程お付き合いさせていただき、実務経験もかなり積ませていただき、今も非常に感謝しています。
別の企業からも協力企業としてお仕事をいただきながら、直接クライアントと接することができたらもっと仕事に意義を感じるのではないかと思い、そちらの営業にも力を入れ始めました。
異業種交流会にも積極的に参加し、様々な事業者様とお話させていただくなかで、想像以上に多くの方がインターネット、ウェブサイト関連での困りごとを抱えていらっしゃることが見えてきました。
「サイトの更新が分からない」「インターネットが上手く繋がらない」といった困りごとに耳を傾け、親身になってアドバイスをしたり、簡単なことであれば無料でお手伝いしたりしていきながら、信頼関係を構築していきました。
そうして徐々に新規のウェブサイト制作や、すでに運用中のウェブサイトの運用改善のサポートに関する依頼をいただくようになっていきました。
ウェブサイトは完成してからが本当の始まりだということを、どのクライアント様にもご説明し、基礎的なマーケティング知識を活用しつつ、アクセス流入や集客、売上の向上に繋げていくための更新と改善の必要性を伝えるようにしています。
私たちの事務所では、必要な施策を必要なだけ提供することを心がけており、個人事業主の方でも支払える金額設定で、ウェブサイトの保守管理や運用上のコンサルティングを行っており、ご依頼いただいたクライアント様とは、目標を共有して誠実に伴走していきます。
木彫り職人の方のウェブサイトでは、作品・製品の販売メインであったコンテンツを修理・オーダーメイドに特化したサイトへの変更を提案し、大幅に売上を伸ばすことができました。
ある造園会社様では、ウェブサイトにSEO対策を導入するとともに、ていねいに編集した施工事例を更新していくようアドバイスした結果、こちらも目を見張るほどの売上向上が見られるようになりました。
小規模な事業者にとっては非常にありがたい存在ですね。
そうであるよう、常に意識しています。ウェブサイトに関して、事業規模の面から見ても、知識・技術の面から見ても、なかなか本格的な施策は打つことができない事業者の方々がたくさんいます。
そうした方々の困りごとを聞いて言われたことを単にやって儲けるのではなく、「まずは調べてみないと分からない」とはっきり伝えたり、「こうするとお互いにさらに良いですよ」という提案をしたりするのは自然と行っていますね。
私自身は、ウェブサイト制作・運用に関しての町医者のような存在であれればいいなと思っています。「お腹が痛い」「風邪を引いた」「指を怪我した」って気軽に安心して相談してもらえるような、そしてそれに対して親身に応えるような、そんな「ウェブ屋」でいられるよう、ていねいな対応を心掛けたいと思っています。
また、クライアント様と一緒に成長していけるような近い存在として認識して頂ければありがたいと思っています。